渡辺京二先生の名著『逝きし世の面影』及び『江戸という幻景』は、ともに江戸時代末期の日本人の姿を、前書は外国人の目を通して、後書は同じ日本人の手によって書かれたものを集めて論評を加えたものだが、それによると、当時の日本人は実に人情にあふれ、世のため人のためになることを行なうことに高揚感を持っていた人物が少なからずいたらしい。例えば、『江戸という幻景』には次のようなエピソードが載っている。

 橘南谿は天明二年から八年にかけて諸国を巡歴した旅行家であるが、旅先で五日十日と逗留して、その地に親しんだ人びとと別れるとき、「故郷に生れ出るより相親しみて命の限り相見る人」との別れよりもいっそう惜別の情にかられた。越後糸魚川を立ち去るときのこと。そこで知り合ったばかりの五、六人の友が見送ってくれたが、なかなか別れがたくて一里もついて来たところに小さな酒屋があった。ちょうど三月半ばのこと、さしもの北国も梅桃が咲きほこり、鶯の声もはなやかである。店のうしろの砂浜で酒を汲み、直江津から来合せたという妓女も一座に加えて歓を尽した。海の彼方に雲のように浮かぶのは佐渡である。今夜はここで泊ろうという誘いを振り切って、ひとり月夜の路をたどれば、「別れの俤、空に残」って歩みもはかどらなかったと南谿は記している。
 越前の国栗田郡の寺に滞在したときは、近所の医生六、七人が来ていろいろと医術について問うので、逗留が二十日ばかりになってしまった。南谿は京の医師であるから、先生扱いされたのである。新春も近いのでここで越年せよとすすめられたが、先を急ぐ身でそうもいかない。しかし、あまりに心をこめて仕えてくれるので断わりもしにくく、近所に用があるふりをして「ひそかに栗田郡を忍び出、新庄という所まで走り逃れて宿」をとった。あとには従者の医生を残しておいたのである。その夜従者から事情を聞いた人びとはにわかに集まって相談し、翌朝五人が早立ちして新庄で南谿をつかまえた。南谿は「驚きかつ迷惑」に感じたが、その志と親切に深く礼をのべて、何とかひきとってもらった。しかし二人はどうしても帰らない。一人は農夫で福井までついて来た。その間「昼夜途中までも他の雑談をなさず、ただひたすら物問うのみ」である。この機をおいて京の先生から物を学ぶ折はないと見極めたのである。もう一人は医師で、自分の医業が繁昌しているので、患者を友人の医師にあずけてあとを追ったもので、福井から三国、加賀の大聖寺を経て山中の温泉までついて来た。南谿と従者の荷物もかついで、「日夜ただ医事のみを問う」ありさま。その熱心さに感じて、南谿は温泉宿でいくつかの秘事を教えて彼を帰した。
 むろんこれは情愛の深さというばかりではなく、当時における知識というものの貴重さ、その貴重なものを求めるに当っての人びとの真摯さを語る挿話であるだろう。だがいずれにせよ底に流れるのは、当時の人びとの熱くて真直な心のありようである。
 南谿が備後国を通った時のことだ。道連れになった老人が南谿を京の医師と知って、「親しい家の女房がもう二年も難病を患っている。どうか診ていただけないだろうか」と懇請するので、「いとやすきこと」とうけがったのはいいが、その家というのがとんだ山の中。従僕が「程も知れぬいたずら事」と腹を立てるほどの難路だった。しかし来た甲斐あって、南谿の治療は効を奏し、女はかなり快方に向かった。今後の薬方などくわしく書き残してその家を去り、その後二年を経て京都に帰った。
 するとある日、六条の宿屋が訪ねて来て、「以前九州へおもむき給いし御医者はこなたなりや」と問う。備後の六兵衛という百姓がのぼり来たって、「下に市の字の付きたる御医者をご存知ないか。何とぞ尋ね求めてもらいたい。高恩を受けたので、御礼のために出て来たのだが、うっかりお名前を聞かず、ただ荷物の下げ札に市の字を見たのを覚えている」というので、こうして探している。見ればお宅の表札には「市」の字があるのでお尋ねするのだという次第。南谿の通り名は東市というのである。翌日六兵衛が来て、あのあと、妻のさしもの難病も平癒し、村では弘法大師がいらっしゃったのだと大評判。とにかく御礼申さずには気がすまずこうして出て参りました。もしお逢い出来ぬときは東寺へ行ってお大師様にお礼申すつもりでありましたと言う。真実面に表われて、南谿は医師冥利を感じた。

 ここに引用したような日本人は、現在はほとんど死滅している観があるが、私はこの現代にあっても、いま述べた本に登場しているような江戸期の日本人を彷彿とさせる人物と出会うことが出来た。
 その人物とは、九州は長崎県の佐世保で生まれ育ち、現在佐世保の郵便局に勤務する野元浩二氏である。野元氏と私が出会ったのは、今から6年前の2004年の2月、私が初めて佐世保で講習会を行なった時である。佐世保の講習会は、私が四国の香川や愛媛で行なった講習会に参加された平田整骨院の平田雄志院長が、私の技や考え方に深く共鳴され、是非佐世保でも講習会を行ないたい旨、私に講師を依頼された事から始まったのである。
 そして実現した佐世保での最初の講習会の当日、平田院長から「この人は郵便局の人ですが、甲野先生のナンバの体の使い方を実際に坂や階段で使って、郵便の配達が楽になったという事です」と、その日初めて野元氏を紹介されたのである。あらためて顔を見ると、年齢は40歳は越えていると思われたが、やんちゃな少年の面影を残していて、「ああ、面白そうな人だな…」というのが私の第一印象だった。
 その後、年に2回か3回ほど佐世保に行くようになったが、いつの間にか野元氏は講習会開催のスタッフとして私の迎えや見送りの時の車の運転手として参加されるようになった。しかし付き合いはその程度で、それ以上の進展はなかった。
 それが俄かに変わったのは2006年に、私が長男の陽紀を伴って佐世保の講習会に行ってからだと思う。陽紀は私よりも親切丁寧に人に接しているが、同時によく相手も観察していて、その人を観る能力には、しばしば驚かされる。その陽紀が佐世保に行って、「あの野元さんって人、いいねえ。あの人はいいわー」と、しきりに感心していた。そして野元氏からも「陽紀さんは素晴らしい。先生は来んでも陽紀さんに是非ウチに泊まってもらいたかですよー」という話が出た。
 とにかく陽紀の人物鑑定の鼻は確かで、「あの人はいいねぇー」と言って外れた事がない。その陽紀がしきりに野元氏の事を言うので、これはただならぬ人材かも知れないと思うようになった。もちろん、この陽紀の発言がなくても野元氏の真価はやがてハッキリとしたと思うが、陽紀の発言がその時期を早くしたように思う。
 やがて野元氏は、私が佐世保を訪れる時はもちろん、熊本に行く時でも運転手兼アシスタントとして欠かせぬ存在となっていったが、野元氏が人に何かを教える時、ただならぬ才能がある事に気づいたのは、2009年の6月に九州に行った時のことである。この時は佐世保から熊本への道中も、野元氏運転の車に乗せてもらい、熊本の講習会の後、熊本の講習会の世話人である加納氏の古くからの友人で、金峰山のミカン畑が拡がっているその上に大型の木工機械を据え付け、気が向いた時に何か作りながら一人暮らしをしているS氏の許に、数人で伺って一泊させてもらったのである。翌朝、野元氏が、この時大阪から参加のK女史に農業のやり方を説明している様子を観ていたのだが、都会人でまったく農業知識のないK女史に、野元氏は本当に見事に説明をされてた。あまり感心したので、その事を私のサイトの「随感録」に書いたので、ここでそれを引用させて頂きたい。