今年2010年の4月から5月にかけて、宮崎県で猖獗を極めた口蹄疫のニュースは連日新聞やテレビで放送されていたが、この宮崎での牛や豚の大量殺処分は、恐らく地獄絵図だったと思う。農水省の対応が遅いとか、宮崎県のエゴで種牛の処分をしぶったとか、イギリスでは国家をあげた非常体制で臨んでいるというのに、日本は立ち後れているとか、議論は色々とかわされていたが、このように家畜を商品として考える以外に、生き物に対する思いやりをもった発言が皆無なことに私は背筋が寒くなった。
 かつて、まだ西欧文明がほとんど上陸していなかった頃のこの国では、牛を食べる習慣ももとよりなかった。そのため、西欧人が来るようになっても、当初は食料として牛を欲しいと言われても、容易にそれに応じなかったと言うし、ニワトリを売っても、そのニワトリに卵を産ませるのではなく、これを食べるのだと知って、あわててこれを取り返しにいったという話が、幕末から明治にかけての日本を、外国人が観察した文献を元にみごとな論考を加えて描き出した、渡辺京二氏の名著『逝きし世の面影』に出てくる。また、同じ著者による好著『江戸という幻景』には、天明の頃、木曽の山中を旅した僧が出会ったという、ほんとうに心温まる馬子の話が出ている。あまりにいい話なので、ここにそれを引用したい。

 天明、寛政の頃、ある僧が江戸からの帰り木曽山中で馬に乗った。道のけわしいところに来ると、馬子は馬の背の荷に肩を入れ、「親方、危ない」と言って助ける。あまりに度々なので僧がその故を問うと、馬子は「おのれら親子四人、この馬に助けられて露の命を支えそうらえば、馬とは思わず、親方と思いていたわるなり」と答えた。この馬子は清水の湧く所まで来ると、僧に十念を授け給えと言い、僧が快諾すると、自分は手水を使い、馬にも口をすすがせて、馬のあごの下に座ってともに十念を受けた。十念とは南無阿弥陀仏の名号を十遍唱えることをいうのであるが、この男は僧を乗せる時はいつも賃銀は心まかせにして、その代わりに僧から十念を受けて、自分ら家族と馬とが仏と結縁するをよすがとするのだということであった。
 なるほどこれは格別に奇特な男であって、それゆえに『畸人伝』に録されもしたのだろう。しかし、この男の信心にべつに感心しない現代人たるわれわれも、馬とともに十念を受けるという行為にはなにか溜息のようなものが出る。江戸期の日本人はこの男に限らず、馬を家族の一員とみなしていたようだ。明治十一年に馬を乗り継いで東北地方を縦断したイザベラ・バードは、難所にかかると馬子が馬に励ましの言葉をかけ通しなのに気づいていた。そしてこういう情愛は馬のみならず、牛・鶏から犬・猫のたぐいに至まで及ぼされたのである。

 こうした情愛をもっていた人間が、現在の畜産を見たら、どう思うであろうか。今回の口蹄疫騒動を報道したテレビや新聞に牛を育てた農家の人たちが「家族同然に育ててきたものを殺処分しなければならない苦悩・・・」といったニュースがあったが、肉牛として出荷するという前提で飼っている牛を、無為に殺すのは無念であろうし、虚脱感も伴うだろうが、殺して肉とすることを前提として飼っているのだから、木曽山中の馬子とはその家畜に対する思いは天地の差があるだろう。
私は、もともとは仏教国であり、現在も多くの宗派が残っているこの国の仏教の僧侶達の中から、こうした惨状について、なぜこのような畜産のあり方に対して何も言わないのか、もどかしくてならない。
現在、この地球は様々な問題が山積し、食料生産に関しても今後極めて不安要素は多い。そうした中、輸入した穀類を食べさせるなど、経済的にも随分と経費のかかる畜産を極力減らし、かつての日本のように、植物性の食品を主体に食べるような世の中にしていく方が、食料問題に対する本質的な対応ではないかと思う。
牛、豚肉や、砂糖など、もともと日本人がほとんど食べなかったものを、極力減らしていけば、ややこしい慢性病にかかる率も下がり、医療費の節減にもつながる上、様々な犯罪も減ってくると思う。
どうしても肉を食べたい向きは、現在増えすぎて困っている野生のイノシシや鹿を食べるとか、穀物飼料などで肥育せず、穀物畑などには不向きな傾斜地などに放し飼いにして、本来の草を食べさせて育てたような牛の肉を食べればいいと思う。
 世をあげてこうしたことに取り組めば、家族同士の殺人やら「人を殺してみたかった。誰でもよかった」などという衝動的殺人事件も減ると思う。動物を食べるなとは言わないが、食べるならば、かつてのアイヌの人たちが行ったような、その動物の命に対する尊敬と感謝の念を持ち、またその動物がいきいきと生きる自由も与えた上で、食料とすべきだろう。
 これはなにも、動物だけではない。植物を育てる農業においても、化学肥料や農薬を用い、自分たちに都合のいいように遺伝子までも組み替えて、ひたすら欲を満たそうとするそうしたエゴの固まりを許容しておいて、「地球にやさしく」とか「人々に思いやりを」と言ってもどだい無理な話である。思いやりを人々に持たせたいのなら、人間が生きることの根本にある、食の問題から考えていかなければならないと思う。
 このような私の意見を冷笑している限り、平和など望んでもとても得られるものではないだろう。世の有識者、あるいは評論家といわれる人たちの中に、一人でも現在の畜産のあり様、農業のありように対する疑問を、勇気を持って発言する人が出てくることを、心から望みたい。

  渡辺京二 著
『江戸という幻景』
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