桜も散った4月18日、私が卒業した明星小学校の同窓会があった。当初は、とても行けないと思っていたが、不思議と時間が空き、この小学校があった府中市の大国魂神社の結婚式場で行われた会に、多少遅刻はしたが出席することが出来た。幸い私がお世話になった先生方も全員出席され、不思議な時間を過ごすことが出来た。
とにかく、あらためて感じたのは、人というのは本当に個人個人それぞれの時間を生きているのだという事である。50年近い年月が経っても、当時の面影そのままの人もいれば、名乗られても「エエッ、そうなのかなあ?」と驚くほど変わっている人もいる。
しかし、それより何より驚いたのは、小学校時代は内気で鳥や昆虫の事は、多少くわしかったかもしれないが、およそ他の事は消極的だった記憶しかない私だったが、何人もの旧友から「甲野君で印象に残っているのは、『NATOは北大西洋条約機構だ』とか、そういう事にとても詳しかったこと…」などと言われた事である。それは、当時父がラジオの短波放送に勤めていて、耳学問で多少はそういう事も聞き知っていたからだろうが、本人の私には、そのような発言を積極的にした記憶はまるでなかったから、これはクラス会に出て一番予想外の事だった。
しかし、当時の級友も担任の先生も、そして私自身も全く予想もしなかった事は、体育が苦手で本当に不器用だった私が、いま、プロのボクサーと手を合わせて驚かれたり、サッカーやラグビーの選手と競り合って止められることがない、といった事実であろう。
人間の願いは叶うものだと言われるが、当時運動神経抜群の級友を憧れの眼というより、自分とはまるで別種の人間のように眺めていた私自身が、現在還暦を過ぎて現役のスポーツ選手と動きを合わせて驚かれるようになるなどという事は、願いが叶ったというより、「人間の一生とは分からぬものだ」という感慨の方が大きい。
ただ、なかには変わらぬ事もある。約半世紀ぶりに会った級友の顔を見ながら、その半世紀前、いや、もっと幼い時、この顔ぶれと共に小学校に通っていた時から殆ど抜きがたく私の中に強力に刷り込まれていて、いま現在もその刷り込みが解除されていない私のある物に対する嫌悪感をあらためて思い出していた。
私は明星小学校の後、中学も高校も明星に行ったのだが、いま思い返してみると他の中学や高校に行かなかった理由の一つは、その、ある物に対する嫌悪感があったからだと思う。それは何に対してかというと、現在私が和服姿でいる最も大きな理由である、洋服によく付いている服が脱げないように留めている小道具に対してである。ある人によれば、それは弓や車と共に人類の基本的発明の一つといわれるが、それが発明されたのは弓や車に較べれば遥かに歴史が新しい。やけにもってまわった言い方をしたが、その理由はいまだにその小物の名称を発音するのも嫌だからである。ここまで書けば、これが何かは誰にもお分かりだろうが、決定的ヒントを述べておくと、この小物と同じ音の芍薬に似た華麗な花木がある。念のため注を入れておくと、芍薬はこの花木と同じ科に属している。
なぜ、この小物をそれほど嫌悪しているのか、その理由やキッカケは全く不明だが、とにかく物心ついた頃から嫌でたまらず、記憶にある限り最も古い、私が3才か4才頃の原風景のなかに、その私の嫌いなものの付いた服を着せられて泣いていた情景がある。
もっとも、引っ込み思案で物事の表現が極度に下手であった幼い頃の私は、その「嫌いだ」という事をうまく母に伝えられないでいたようだ。その後、ある程度自分の事を主張出来るようになった年代になってからは、普段着る服はかぶる形式のものか、スナップ留めかファスナー付きのジャンパー以外は着なくなっていた。そのため中学高校の制服が紺色にホック留め形式であった明星の制服は、私にとって大変ありがたかったのである。
その後も現在に至るまで、この洋服小物アレルギーは続いている。したがって、私が現在の武術研究者という職業を選んだ潜在的理由のひとつ(あるいは心理学的にみれば、かなり大きな理由かもしれない)は、武術の専門家という、和装をしていても世間の人達にそれほど奇異の念を抱かれないで済むという事情があったからかもしれない。
私は今でも、私が生まれて初めて着物に袴という姿で電車に乗った時の事を鮮明に覚えている。それは1978年、昭和53年12月31日の大晦日であった。この日の昼頃、私は何故か無性に羽織袴姿で元旦の初詣に行きたくなった。とにかく、それは子供が何か欲しいものがあると、矢も盾もたまらなくなるのに似ていて、私は母に懇願したような記憶がある。何しろ当時の私は、合気道の稽古の時に着る道衣と袴以外の和装は何も持っていなかったからである。私がよほどせっついたのであろう。母は私のために父が持っていた着物を着ることを提案し、そのために真冬であったので長襦袢の代わりにネルの寝巻を買って、その襟に襦袢の襟をつけることを思いついてくれた。そして袴は新しい合気道用の袴を履くことにして草履も買うことにした。とにかく大晦日の忙しいなか、ネルの寝巻の襟に半襟を縫いつけてもらい、何とか体裁を整えて、いささか裄が短く前腕がかなり出る父の着物と羽織に稽古袴をつけて、夜の12時頃家を出て、明治神宮に向かった。(この日は大晦日で電車は終夜運転をしていたからである)
生まれて初めて羽織袴の和装姿(といっても、かなりいい加減なものだったが)で電車に乗った時に湧き起った、あの名状しがたい異和感の記憶は、今もありありと残っている。その異和感とは、明治の初めの頃、田舎から出てきた者が横浜のとある西洋館に入ってみたら、そこにいた日本人が全員洋服を着ているのを見た時、きっとこんな感じがしたに違いない、という異様な思いである。
つまり、いまや洋服が常識の現代日本に生きていながら、いきなりタイムスリップして明治時代に行き、私自身も又その頃の普通の日本人になったような感じがしたのである。そのため、自分が今どき時代がかった羽織袴姿でいることに、気恥ずかしいという感情とは全く別な、「あなた方日本人が、そんな西洋人のサル真似のような恰好をしても似合わないよ!おかしいと思わないの、見てるこっちの方が恥ずかしくなるよ」という、まるで想像もしていなかった感情が噴き上がって来たのである。(電車に乗るまでは初めての和装に気恥ずかしくて「きっと周りをあまり見られないだろうな」と思っていたのだから、私にとってもまったく思いがけない不意打ちの感想だった)
そして、この時の印象がよほど強烈だったのだろう。正月の松の内が過ぎても外出時に、もはや洋服は着られなくなってしまった。そのため大急ぎで和裁の達者な叔母に袴を縫ってもらい、既成のウールの着物を買って、この1979年の正月以来、私は和装以外で外出することはなくなったのである。(もっとも一度だけ私が恩のある人の引越しの手伝いのため、セーター姿で出かけた事があったが、3時間くらいもすると、まるでアル中患者がアルコールが切れた時のように、和装でない事にどうにも落ち着かず、以来、羽織袴でない時は、紺の道衣に私が考案した太い野袴のようなズボンと半纏という植木屋の職人のような恰好で出かける事になったのである。
お陰で、それまで苦痛の種だった、あらたまった席に出かける時のために「着なければならない」と思って持っていたネクタイやスーツ、革靴を着なくて済むようになり、本当にホッとした。したがって、今ではそれらのものは人にあげてしまい、今は自宅にいる時、道衣の下に着ることがあるかぶりのTシャツやセーターの類はあるが、それ以外のスーツ、ジャンパー、コートなどは一切持っていない。
和装になる以前は、よほどの場合でもないと余計なものが一切ついていない、かぶりのTシャツとセーター姿で一年中過ごしていた。つまり春はただ長い袖のTシャツ、夏は半そでのTシャツ、秋になって冷えてくるとTシャツにセーターを重ねる。冬になるとセーターを厚めにして、Tシャツをもう1枚重ねる。という実に簡単なファッションで、しかもそのTシャツやセーターが殆ど全て黒。おまけにズボンも黒かったから、よく烏のようだとか忍者とか言われていた。
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昭和51年頃、自宅で。和装になる前は、だいたいこの恰好だった。この約2年後、松聲館道場を開いたが、二十代は、ほとんどこの姿で通した。 |
こうして思い返してみると、普通の人にはごく当たり前なものが、どうにも嫌いという私の変わった趣味が、私をつき動かした力というのは大変なものがあったように思う。時に、「なぜあんな、どこにでもあるものが、そんなに嫌いなのですか?」と聞かれて、自分でもあらためて思い返し、検討し直すことがあるのだが、何というか物陰にビッシリと産みつけられている何かの虫の卵を見る時の気持ち悪さ、と言えば多少は共感してもらえる人がいるかもしれない。また、食事の後、飯粒が鼻の下や顎についているのに気付かない人を見ると、大変落ち着かないものだが、そうした感情にも近いように思う。そういえば、いまこれを書いていて思い出したが、母はサクランボが苦手で食べたがらなかったのだが、その理由はサクランボを食べた後に出る種を見るのがどうにも気持ち悪いという事だった。あるいは、そういう母の好みが形を変えて私にも伝わっているのかもしれない。しかし、古い武術の伝書などを読むと、昔から勇者といわれる人も妙なものが嫌いであったりしたらしい。
例えば豊臣秀吉の家臣のなかでも剛勇で知られた加藤清正は蜘蛛が大の苦手で、晩年厠から清正が大声で家臣を呼ぶので、驚いて皆が駆けつけてみると、清正が小さな蜘蛛を握り潰して「清正一生の手柄ぞ」と興奮して一同に語ったそうである。
また、この話を紹介してあった本には、やはりある剛勇の士が「数の子」が大嫌いで、それを耳にした殿様が「そのような、人の食べる物が嫌いというのはおかしい」と、正月に家臣に物を与える時、その人物に「数の子」を与えたところ、主君から下賜されたものなので断ることも出来ず手を出して受け取ったのだが、見る間にその手が腫れ上がり、部屋を出たところで昏倒して死亡したという。そのため、この本では勇者といえども人には分らない妙なものが嫌いであったりするので、それを馬鹿にしてはいけないと戒めていた。
人間というのは、時にこのような、妙な反応をするものである。そして、すでに述べたように、その妙な反応が時に新しい展開を生むのだから、人間というのはやはり謎に満ちた生き物のようだ。

